「肉体」という言葉にあせった頃
「自分の子どもだったら、自分の生んだものだから、殺したってどうしたって親の勝手だがね」
中学校に入学した頃のある日、友人の家に上がりこんで、仲間で数少ない漫画雑誌をまわし読みしていると、隣の部屋からその家のお兄さんの声が聞こえてきました。
「自分の子どもといっても、一個の独立した肉体でしょう。親のものであって、親のものではないんだよ」
確かお兄さんも中学生だったと思います。すごい会話をしている、と思ったものでした。中学生になると、親子の会話もこんなふうでなければならないか、と思ったものでした。
ということよりも、自分は「肉体」という言葉に、心の中で飛び上がったものでした。「健全なる肉体に・・・」などという使い方は、そのころはまだ知らなくて、まちかどのきわどい映画のポスターの(今ならどうってこともないものでしたが)例えば「妖しい肉体の・・・」などといった表現でしか、肉体という言葉を知らなかったのでした。
そっとまわりの仲間の様子を様子をうかがいました。もちろん、聞こえていたでしょう。でも、だれもが黙って、漫画雑誌を見ていました。
今考えても、そのころでは、その家のお母さんは特別なほうだったのでしょう。いや、たじたじになりながら、お母さんは必死で子どもと闘っていたのでしょう。とても素晴らしいお母さんだったと思います。
でも、毎日の生活に追われて、時には、子どもを怒鳴りつけたりしているお母さんたちも、もちろん素敵でした。そういう時代でした。
写真は、まだ紅葉したまま落葉しないブルーベリー