ラーパーさんの「花の谷」だより 

ブルーベリー園花の谷、2018年のブルーベリー摘みは、8月10日まででした。

来年度も、7月7日頃から8月10頃まで、ブルーベリー摘みを予定しております。

2018年は「ブルーベリー畑巡り」を設定しました。7つの畑から文字を集めると、粗品(ほんとうに粗品です)がもらえるものでした。

でも、なにしろ暑すぎました。

雨天休園。予約不要です。9:00~15:00の開園。最終閉門は15:30です。

来園の場合は、このブログなどで、確認してからお越し下さい。

問い合わせは 090の7862の4605

スマホで「売木村45-530」とすると、グーグルでも、ヤフーでも、ピンポイントで、来ることができます。

グーグルでは「ブルーベリー花の谷」とすると、「売木村の観光名所」などと、360度の写真や地図まで出るようになりました。

4.5と高評価まで出ています。ありがたいことです。

検索「食べログ 花の谷」でも、地図などが確認できます。

入園料は
大人 ミニコース(摘んで食べる。ミニパック付き) 500円
大人 大コース(摘んで食べる。大パック付き) 1,000円

小中学生 パックなしコース(摘んで食べる。ミニパックなし) 200円
小中学生 ミニコース(摘んで食べる。ミニパック付き) 300円
小中学生 大コース(摘んで食べる。大パック付き) 700円

幼児は無料です。パック付きは100円。

自園産ブルーベリーと砂糖だけの
「手作りジャム600円」
を製造販売しています。
売木村ふるさと館、売木村こまどりの湯で、いつでも600円で販売しています。

なお、収穫済み実入りパックの販売は、しておりません。

名古屋、豊田方面からは、国道153号です。
平谷村から売木村を目指して、国道418号を平谷峠越えして降りてきます。

期間中は、看板と、ノボリ旗が出ています。

浜松、豊橋方面からは、役場を目指して来て、ふるさと館などで聞いてください。

どこからでも2時間前後です。

浜松方面からは、いなさICから1時間ほど、近くなりました。

スマホがない場合、ナビは、ピンポイントでは連れて来てくれません。

山奥なので、園の前の村道が、出てないこともあります。

その場合、まず売木村に着いて、あとはのぼりと矢印看板が頼りです。


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友だちができなかった理由


「欠席した者にまで、写真を送ってもらって、ありがとう。悪かったねえ」

先月、小学校の同窓会幹事を、順番ですませたのです。

そのあと、近況報告をまとめたプリントと、出席者の写真を、同窓生全員に送りつけました。

6年前には28人、3年前には17人の出席。

5年生になる時に、分校からの人数を合わせて60人を、かろうじて超えて、2クラスになった、と記憶しています。

今回なんとか、その60人のうちの15人出席、に踏みとどまってもらえたのでした。

「みんな、ひどう年取ったねえ」

率直な感想、ありがとうございます。お互いさまというものでしょう。

別の同窓生からも、お礼の電話がかかってきました。

「変わってきたばっかの頃、家に遊びに行ったのを、覚えとるかなあ。」

自分は、小学校の3年生の時、父の転任にともない、小学校脇の教員住宅で、暮らすようになったのでした。

「お母さんが、お茶を出してくれた。あの頃、そんなことをしてくれるうちなんか、どこにもなかったぞ」

数えてみると、昭和28年のことになります。

「おまけに、勉強をさせられそうになった。」

記憶にありません。

まあしかし、そうだったかもしれません。

「勉強なんか大嫌いだったもんで、あそこのうちには、もう絶対に遊びに行かんぞと、みんなで決めたなあ」

追記

この友だちは、今でも何人かの人を使って、仕事をやっているようです。

もうひとつ追記

あの頃、松茸採りや自然薯掘り、笹百合採り、魚釣りなどなど、いろんなことを、友だちから教えてもらいました。

そのせいで、こんな山中に、今暮らしているのかもしれません。







売木・白樺高原の茶店
花の谷のブルーベリー狩り、本日8/10と明日8/11は休園します。

8/12は、最終開園日とします。

約1ヶ月、みなさまありがとうございました。



名古屋や岡崎などから、国道153を売木に来る道は、ふた通りです。

平谷から、平谷峠を越えて来る方法と、根羽から、茶臼山への道で、売木峠を越えて来る方法です。

売木峠越えで、下りて来る途中には、白樺高原キャンプ場や、星の森オートキャンプ場があります。

星の森は、テントも張れますが、コテージもあって、とても整備されています。

白樺高原は、主にテントを張る人向き、野生派?向きです。茶店があって、うどんやコーヒーなどがあります。写真のギャラリーにもなっています。

上の写真では、左手のほうに、テントが張られていて、人もいたので、そちらは外しました。

Iターンの人がやっている茶店、夏の時期は、毎日営業日と思いますので、ぜひ立ち寄ってみてください。

下の写真は、茶臼山高原の牧場です。道路沿いの水飲み場に、牛たちが集まっていることもあります。

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耳鼻科へ通った頃
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あれはどういう意味を持つ治療だったのでしょう。

子供の頃のことです。小3の7月には、その耳鼻科病院のある街を引っ越したから、それ以前のことになります。

父の自転車に乗せられて行った先で、診察台に座らさせられて、鼻に管を差し込まれました。今もと思いますが、心ばかりでなく、鼻の奥までもねじ曲がっていたのでしょうか。

管を耳にも差し込まれたのだったか、一度に両方ともだったのかについては、さだかではありません。なにしろ、60年以上も昔、はるか幼少のみぎりのことなのです。

そして、足踏みポンプのようなもので、強く空気が吹き込まれました。

すると、突然耳が良く聞こえるようになりました。診察室の隣、待合室で話をしている人たちの声が、はっきり聞こえて来たのです。

ふだん、自分以外の人たちには、こんなにはっきりと会話が聞こえているのか、と子どもながらに愕然としたことを、今もはっきりおぼえています。

自分には聞こえてないのに、とほんとうにショックでした。
世界は自分には聞き取れない所で、動いていたのか・・・。子ども心に、そんなある種の疎外感のようなものを、覚えたのでした。

でも、その状態は長くは続かず、短時間でもとの状態に戻り、いつもの平和な子どもの生活に還ったと思います。

参考までに、大人になってから受けた聴力検査では、異常はありません。この歳でも、自分に都合の悪い事以外は、人よりは良く聞こえているようです。




流れ星でなかったもの
 

「あれっ、そうだったかねえ。流れ星を見たことがなかったの。じゃ、そのときは教えてあげるわ。」
花火大会の会場である土岐川まで、歩いて行く途中で、母とそんな話になりました。60年以上も前の話とあれば、それが何歳のときのことであるかもわかりません。

その頃も、花火大会が8月1日だったろうから、住んでいた場所を考えると、小学校の2年生までのいずれかの年の夏、ということになります。

「あっ、流れ星。ほら、ほら」
川の近くまで来たときに、突然母が叫びました。

母の指先を見ると、なにか小さな炎のようなものが、近くの木立の向こうを、水平に横切って行きました。下降する感じはまったくなくて、気持ち上向きに飛ぶような感じで、視界を左から右に横切ると、そのまま消えてしまいました。
遠くの空、というよりは、すぐ近くの空中、という感じでした。

「流れ星にしては変だったねえ。なんだったろう」
母が言いました。近くには父もいましたが、見ていなかったようでした。

あれは何だったのでしょう。後年、流れ星はいく度となく、見て来ましたが、確かにそのどれとも明らかに異なっていました。もっとゆっくりと、ふわふわと飛んで行ったと思います。
昭和20年代後半の、飛行機だってほとんど飛ばなかったであろう、暗い空での出来事でした。

いわゆる火の玉と言ったものが、それに近かったようには思います。もちろん、その後、このようなものを見たことは一度だってありません。
また、そういうものの存在を信じているわけでもありません。

あれがなんだったと思うのかどころか、覚えているかどうかさえ、母に聞いてみることもありませんでした。ただ、事実として、不思議なものを見た、これまでで唯一の経験です。
最も公平なお菓子の分け方
 
子供の頃、おやつがある時には、まず新聞紙を4つに切ったものでした。

どんなものがおやつだったのか、よく覚えてはいないけれど、例えば袋に入ったあられ菓子だとすると、それをきょうだい4人で、新聞紙の上で分けたのです。

この光景はよそ目にもかなり厳粛、というかシビアなものだったらしく、隣の家のひとりっ子の男の子が、家に帰るとさっそく新聞紙を広げた、と親たちが話していました。
一人っ子では・・・。なんとも羨ましい話でした。

まったくあの頃は、今のように、食べ物がいくらでもあって、食べたい時に食べたいだけ食べられる、という時代ではありませんでした。どこでもそうでしたが、貧しかったし、おやつのない日だって、よくありました。

というわけで、いつも問題になったのは、お菓子が均等に分けられているかどうかということ・・・。
「自分の分だけ多く分けた」
もちろん、お菓子配分係りは毎日交代制でしたが、慢性空腹症候群4きょうだい、それで収まるはずはありませんでした。

でも、そういう苦情が出るうち、賢くて???気の小さい長兄は、苦しまぎれに素晴らしいことを思いつきました。

「お菓子を分けた人は、最後に残ったのを、もらうことにしよう。それだったら、少しでもおんなじになるように、気をつけて分けると思う」

幸いにも、おずおずとした提案は受け入れられ、そののち、お菓子について争いの起こることはありませんでした。
大きなフナを掬った話
 

小学校の低学年の頃、大きい池と小さい池、二つの池のほとりの市営住宅に住んでいました。

大きい池は道路の土手の下にありました。
なんでも、お嫁さんが落ちて死んだことがあるとか、それ以上の詳しい話は聞くことがなかったけれど、深くてすり鉢状で、親からは近づかないようにいつも言われていました。

小さい池は、子どもの目にもちっぽけなわが家のすぐ脇にありました。
たぶん農業用のため池で、そんなに清らかな水の池とも思われませんでしたが、昭和20年代の後半のこと、今から思えば、汚染も何もない本当の意味で綺麗な水だったことでしょう。

池には、特に夏の日の夕方になると、まだ若いお兄ちゃんやら大人の人やらが、よく魚釣りに来ていました。フナがいて、夕日の中でウキがピクピクと上下する様子は今も覚えています。

父がそんな小さな池のほとりに、ささやかな田んぼを作って稲を育てていたのを思い出しました。そんな所に田んぼを作って良かったものなのか、果たしてお米が穫れたものかどうかも記憶にはありません。
ただ、子どもは多かったし、安月給で大変だったことでしょう。

その頃、父が長い竿にタモをつけて、浮かんで来るフナを掬っていた光景も浮かんできます。もちろん、子どもたちにたべさせるためでした。

「大きなのがいると思って掬ったら、ネズミだったわ」
ある日の食卓で、父はそんなことを言っていました。
イモにん

「あいつ、いつもベロで歯をこすっとる。イモばっか食っとるもんでだわ。」
ある日、クラスの仲間の一人が、いかにもバカにしたように、そこに居ない同級生のことを言いました。今から60年近くも大昔、小学生だった頃のことです。

確かに、蒸かしたサツマイモを食べると、歯に残って、舌でこすりとったものでした。
「イモにん」そんな言葉が使われたりしていました。「芋人」と書いたのでしょうか。

貧しくてご飯も満足に食べられなくて、サツマイモを食べて暮らしているヤツ、という意味でした。
誰もが貧しくて、他人のことなど言えたものではなかった時代でしたが、それだからこそなおさらそういう言葉があったのでしょう。

そんなことがわかるなんて、自分だって芋を食べている証拠だろう、と思いました。
「ビスケットを食べても、おんなじように歯に引っかかるよ。」
あとになって、そんなふうに言ってやったら良かった、と思いました。

その同級生とも仲が良かったし、たぶん、正義感のようなものもあったのでしょう。
でも、そうはとても言えませんでした。

それに、ビスケットなんて、自分だってほとんど食べたことがなかったし、食べたことのない仲間だっていたと思います。そんな時代でした。

幸いその話はそれ以上発展することはありませんでした。

最近、とても美味しい芋剣先をいただく機会がありました。名古屋の専門店の、包丁で切って作ったイモケンピだそうです。
細く長く繊細に切られて、想い出の中にあるサツマイモとはまったくかけ離れた、とろりと甘いお菓子でした。

高級なお菓子なのに、昔のあまり楽しくない想い出を書くなど・・・とためらう所もありましたが、ついつい書いてしまいました。

酢を飲む話


「お隣のご主人、お医者さんに血圧が高いといわれて、酢を飲もうとするんだけど、どうしても飲めないんだって・・・」
 夕食のときに、そんな話題が出ました。子どもの頃のことです。
 血圧を下げる薬がそのころはなかったのか、あっても酢を飲めばよいくらいの血圧だったのか、その辺のところは今となってはわかりません。

 酢が苦手の家なのに飲まなくてはならなくなる、というか、料理でふだん酢を使わないから逆に飲まなければならなくなる。
 そのことが子ども心に皮肉に思えたものでした。

 かぶらの甘酢漬けを食べながら、突然思い出したことです。子どもの頃の我が家は、よく酢の物が出たものでした。

 ただ、ふっと今思ったことですが、どうもお隣は我が家ほどは貧しくなかったような・・・。お肉も時々食べているようだった気がします。

 我が家は兄弟が4人もいましたし、いつも、よくいえば質素な食事でした。
 まあ、あのころはどこの家も本当に貧しい暮らしでしたし、それが普通で、それでよかったのですが。

写真は天竜川の水鳥、のつもりです。

 




 

「肉体」という言葉にあせった頃


「自分の子どもだったら、自分の生んだものだから、殺したってどうしたって親の勝手だがね」
 中学校に入学した頃のある日、友人の家に上がりこんで、仲間で数少ない漫画雑誌をまわし読みしていると、隣の部屋からその家のお兄さんの声が聞こえてきました。
「自分の子どもといっても、一個の独立した肉体でしょう。親のものであって、親のものではないんだよ」

 確かお兄さんも中学生だったと思います。すごい会話をしている、と思ったものでした。中学生になると、親子の会話もこんなふうでなければならないか、と思ったものでした。

 ということよりも、自分は「肉体」という言葉に、心の中で飛び上がったものでした。「健全なる肉体に・・・」などという使い方は、そのころはまだ知らなくて、まちかどのきわどい映画のポスターの(今ならどうってこともないものでしたが)例えば「妖しい肉体の・・・」などといった表現でしか、肉体という言葉を知らなかったのでした。
 そっとまわりの仲間の様子を様子をうかがいました。もちろん、聞こえていたでしょう。でも、だれもが黙って、漫画雑誌を見ていました。
 
 今考えても、そのころでは、その家のお母さんは特別なほうだったのでしょう。いや、たじたじになりながら、お母さんは必死で子どもと闘っていたのでしょう。とても素晴らしいお母さんだったと思います。
 でも、毎日の生活に追われて、時には、子どもを怒鳴りつけたりしているお母さんたちも、もちろん素敵でした。そういう時代でした。

写真は、まだ紅葉したまま落葉しないブルーベリー
  
入学早々、教頭先生の手帳につけられた


「宿題がありましたね。忘れた人は立ちなさい」
 中学校へ入学して、二回目の数学の時間でした。なぜか自分たちのクラスは、なんと教頭先生の授業でしたが、その教頭先生が厳しい声で言いました。

 そして、その瞬間まで、前日の授業で宿題が出ていたことを、自分はすっかり忘れていました。もちろん、宿題そのものは簡単なもので、とにかく忘れないでやってきなさい、という程度の意味のものだったのでしょう。忘れていなければ、当然やって来れたはずのものでした。

 実は、誰もがなんなくこなしてしまうことを、おもいっきりポカするのは、自分の得意技のようなものです。これまでの61年間の人生の中で、なんどそういう目に合ってきたことでしょう。いや、してきたことでしょう。
 (ですから、このブログを読んでいる小中高生の皆さんが、もしいるとしたら、安心してよいでしょう。)
 
 仕方がないので、椅子から立ちました。60人ほどの学級の生徒の中で、同じ小学校から来たものは、10名足らずでした。あとはまだまったく知らない他の小学校からの生徒ばかりでした。おまけに、宿題を忘れて立ったのは、自分のほかは、なんと同じ小学校から来た女の子が一人いるだけでした。
 でも、その屈辱よりももっと自分にとって、いやな気持ちにさせられたことがありました。

 「名前を言いなさい」
 教頭先生は、ポケットから小さな黒い手帳を取り出しました。そして、鉛筆で、宿題を忘れた間抜けな二人の生徒の名前を書き込みました。たとえが古いですが、文字通り閻魔様の手帳でした。

 なんだか自分の三年間の中学校生活は、どんなにがんばっても、結局、あの偉い教頭先生の手帳のところまで、引き戻されてしまうような気がしたものでした。

 などという高尚(?)なことは、単純な自分は言葉では思いつきませんでした。でも、ずーっといつまでも、いやな気持ちをひきずっていたように思います。
但し、そのことで教頭先生や、数学が嫌いになる、ことはなかったようでした。それだけの魅力のある教え方だったのでしょう。それに、忘れた自分が悪い、というだけの話でした。

 授業や評価に役立てるために、授業中に、子どもの活動を事細かに、子どもの目の前で、メモするようなことは、自分はしませんでした。もちろん、いまの若い先生たちは、実際に自分の手でやってみた上で、その是非を考えたほうがよいと思います。
 でも、絶えず子どもたちの反応をいっしょに楽しんで、多少なりとも、愉快なやる気の出る授業を、心がけたつもりはあります。