ラーパーさんの「花の谷」だより 

2016年のブルーベリー狩りは、7/1~8/10でした。

2017年も同じようにできると良いのですが、お天気次第です。

まだ、いつからになるかわかりません。

雨天休園。予約不要です。9:00~16:00の開園。

来園の場合は、このブログなどで、確認してからお越し下さい。

問い合わせは 090の7862の4605

スマホで「売木村45-530」とすると、グーグルでも、ヤフーで

も、ピンポイントで、来ることができます。

検索「食べログ 花の谷」でも、地図などが確認できます。

料金は
大人Aコース(摘んで食べる。ミニパック付き) 500円

大人Bコース(摘んで食べる。大パック付き) 1000円

小中学生コース パックなし 200円

の3種類です。 幼児無料

自園産ブルーベリーと砂糖だけの
「手作りジャム600円」
を製造販売しています。

なお、収穫済み実入りパックの販売は、しておりません。

名古屋、豊田方面からは、国道153号です。
平谷村から売木村を目指して国道418号を平谷峠越えして降りて、きます。

期間中は、看板と、ノボリ旗が出ています。

浜松、豊橋方面からは、役場を目指して来て、ふるさと館などで聞いてください。

どこからでも2時間前後です。

浜松方面からは、いなさICから1時間ほど、近くなりました。

スマホがない場合、ナビは、ピンボイントでは連れて来てくれません。

山奥なので、園の前の村道が、出てないこともあります。

まず村に着いて、あとはのぼりと矢印看板が頼りです。


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友だちができなかった理由


「欠席した者にまで、写真を送ってもらって、ありがとう。悪かったねえ」

先月、小学校の同窓会幹事を、順番ですませたのです。

そのあと、近況報告をまとめたプリントと、出席者の写真を、同窓生全員に送りつけました。

6年前には28人、3年前には17人の出席。

5年生になる時に、分校からの人数を合わせて60人を、かろうじて超えて、2クラスになった、と記憶しています。

今回なんとか、その60人のうちの15人出席、に踏みとどまってもらえたのでした。

「みんな、ひどう年取ったねえ」

率直な感想、ありがとうございます。お互いさまというものでしょう。

別の同窓生からも、お礼の電話がかかってきました。

「変わってきたばっかの頃、家に遊びに行ったのを、覚えとるかなあ。」

自分は、小学校の3年生の時、父の転任にともない、小学校脇の教員住宅で、暮らすようになったのでした。

「お母さんが、お茶を出してくれた。あの頃、そんなことをしてくれるうちなんか、どこにもなかったぞ」

数えてみると、昭和28年のことになります。

「おまけに、勉強をさせられそうになった。」

記憶にありません。

まあしかし、そうだったかもしれません。

「勉強なんか大嫌いだったもんで、あそこのうちには、もう絶対に遊びに行かんぞと、みんなで決めたなあ」

追記

この友だちは、今でも何人かの人を使って、仕事をやっているようです。

もうひとつ追記

あの頃、松茸採りや自然薯掘り、笹百合採り、魚釣りなどなど、いろんなことを、友だちから教えてもらいました。

そのせいで、こんな山中に、今暮らしているのかもしれません。







売木・白樺高原の茶店
花の谷のブルーベリー狩り、本日8/10と明日8/11は休園します。

8/12は、最終開園日とします。

約1ヶ月、みなさまありがとうございました。



名古屋や岡崎などから、国道153を売木に来る道は、ふた通りです。

平谷から、平谷峠を越えて来る方法と、根羽から、茶臼山への道で、売木峠を越えて来る方法です。

売木峠越えで、下りて来る途中には、白樺高原キャンプ場や、星の森オートキャンプ場があります。

星の森は、テントも張れますが、コテージもあって、とても整備されています。

白樺高原は、主にテントを張る人向き、野生派?向きです。茶店があって、うどんやコーヒーなどがあります。写真のギャラリーにもなっています。

上の写真では、左手のほうに、テントが張られていて、人もいたので、そちらは外しました。

Iターンの人がやっている茶店、夏の時期は、毎日営業日と思いますので、ぜひ立ち寄ってみてください。

下の写真は、茶臼山高原の牧場です。道路沿いの水飲み場に、牛たちが集まっていることもあります。

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耳鼻科へ通った頃
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あれはどういう意味を持つ治療だったのでしょう。

子供の頃のことです。小3の7月には、その耳鼻科病院のある街を引っ越したから、それ以前のことになります。

父の自転車に乗せられて行った先で、診察台に座らさせられて、鼻に管を差し込まれました。今もと思いますが、心ばかりでなく、鼻の奥までもねじ曲がっていたのでしょうか。

管を耳にも差し込まれたのだったか、一度に両方ともだったのかについては、さだかではありません。なにしろ、60年以上も昔、はるか幼少のみぎりのことなのです。

そして、足踏みポンプのようなもので、強く空気が吹き込まれました。

すると、突然耳が良く聞こえるようになりました。診察室の隣、待合室で話をしている人たちの声が、はっきり聞こえて来たのです。

ふだん、自分以外の人たちには、こんなにはっきりと会話が聞こえているのか、と子どもながらに愕然としたことを、今もはっきりおぼえています。

自分には聞こえてないのに、とほんとうにショックでした。
世界は自分には聞き取れない所で、動いていたのか・・・。子ども心に、そんなある種の疎外感のようなものを、覚えたのでした。

でも、その状態は長くは続かず、短時間でもとの状態に戻り、いつもの平和な子どもの生活に還ったと思います。

参考までに、大人になってから受けた聴力検査では、異常はありません。この歳でも、自分に都合の悪い事以外は、人よりは良く聞こえているようです。




流れ星でなかったもの
 

「あれっ、そうだったかねえ。流れ星を見たことがなかったの。じゃ、そのときは教えてあげるわ。」
花火大会の会場である土岐川まで、歩いて行く途中で、母とそんな話になりました。60年以上も前の話とあれば、それが何歳のときのことであるかもわかりません。

その頃も、花火大会が8月1日だったろうから、住んでいた場所を考えると、小学校の2年生までのいずれかの年の夏、ということになります。

「あっ、流れ星。ほら、ほら」
川の近くまで来たときに、突然母が叫びました。

母の指先を見ると、なにか小さな炎のようなものが、近くの木立の向こうを、水平に横切って行きました。下降する感じはまったくなくて、気持ち上向きに飛ぶような感じで、視界を左から右に横切ると、そのまま消えてしまいました。
遠くの空、というよりは、すぐ近くの空中、という感じでした。

「流れ星にしては変だったねえ。なんだったろう」
母が言いました。近くには父もいましたが、見ていなかったようでした。

あれは何だったのでしょう。後年、流れ星はいく度となく、見て来ましたが、確かにそのどれとも明らかに異なっていました。もっとゆっくりと、ふわふわと飛んで行ったと思います。
昭和20年代後半の、飛行機だってほとんど飛ばなかったであろう、暗い空での出来事でした。

いわゆる火の玉と言ったものが、それに近かったようには思います。もちろん、その後、このようなものを見たことは一度だってありません。
また、そういうものの存在を信じているわけでもありません。

あれがなんだったと思うのかどころか、覚えているかどうかさえ、母に聞いてみることもありませんでした。ただ、事実として、不思議なものを見た、これまでで唯一の経験です。
最も公平なお菓子の分け方
 
子供の頃、おやつがある時には、まず新聞紙を4つに切ったものでした。

どんなものがおやつだったのか、よく覚えてはいないけれど、例えば袋に入ったあられ菓子だとすると、それをきょうだい4人で、新聞紙の上で分けたのです。

この光景はよそ目にもかなり厳粛、というかシビアなものだったらしく、隣の家のひとりっ子の男の子が、家に帰るとさっそく新聞紙を広げた、と親たちが話していました。
一人っ子では・・・。なんとも羨ましい話でした。

まったくあの頃は、今のように、食べ物がいくらでもあって、食べたい時に食べたいだけ食べられる、という時代ではありませんでした。どこでもそうでしたが、貧しかったし、おやつのない日だって、よくありました。

というわけで、いつも問題になったのは、お菓子が均等に分けられているかどうかということ・・・。
「自分の分だけ多く分けた」
もちろん、お菓子配分係りは毎日交代制でしたが、慢性空腹症候群4きょうだい、それで収まるはずはありませんでした。

でも、そういう苦情が出るうち、賢くて???気の小さい長兄は、苦しまぎれに素晴らしいことを思いつきました。

「お菓子を分けた人は、最後に残ったのを、もらうことにしよう。それだったら、少しでもおんなじになるように、気をつけて分けると思う」

幸いにも、おずおずとした提案は受け入れられ、そののち、お菓子について争いの起こることはありませんでした。
大きなフナを掬った話
 

小学校の低学年の頃、大きい池と小さい池、二つの池のほとりの市営住宅に住んでいました。

大きい池は道路の土手の下にありました。
なんでも、お嫁さんが落ちて死んだことがあるとか、それ以上の詳しい話は聞くことがなかったけれど、深くてすり鉢状で、親からは近づかないようにいつも言われていました。

小さい池は、子どもの目にもちっぽけなわが家のすぐ脇にありました。
たぶん農業用のため池で、そんなに清らかな水の池とも思われませんでしたが、昭和20年代の後半のこと、今から思えば、汚染も何もない本当の意味で綺麗な水だったことでしょう。

池には、特に夏の日の夕方になると、まだ若いお兄ちゃんやら大人の人やらが、よく魚釣りに来ていました。フナがいて、夕日の中でウキがピクピクと上下する様子は今も覚えています。

父がそんな小さな池のほとりに、ささやかな田んぼを作って稲を育てていたのを思い出しました。そんな所に田んぼを作って良かったものなのか、果たしてお米が穫れたものかどうかも記憶にはありません。
ただ、子どもは多かったし、安月給で大変だったことでしょう。

その頃、父が長い竿にタモをつけて、浮かんで来るフナを掬っていた光景も浮かんできます。もちろん、子どもたちにたべさせるためでした。

「大きなのがいると思って掬ったら、ネズミだったわ」
ある日の食卓で、父はそんなことを言っていました。
イモにん

「あいつ、いつもベロで歯をこすっとる。イモばっか食っとるもんでだわ。」
ある日、クラスの仲間の一人が、いかにもバカにしたように、そこに居ない同級生のことを言いました。今から60年近くも大昔、小学生だった頃のことです。

確かに、蒸かしたサツマイモを食べると、歯に残って、舌でこすりとったものでした。
「イモにん」そんな言葉が使われたりしていました。「芋人」と書いたのでしょうか。

貧しくてご飯も満足に食べられなくて、サツマイモを食べて暮らしているヤツ、という意味でした。
誰もが貧しくて、他人のことなど言えたものではなかった時代でしたが、それだからこそなおさらそういう言葉があったのでしょう。

そんなことがわかるなんて、自分だって芋を食べている証拠だろう、と思いました。
「ビスケットを食べても、おんなじように歯に引っかかるよ。」
あとになって、そんなふうに言ってやったら良かった、と思いました。

その同級生とも仲が良かったし、たぶん、正義感のようなものもあったのでしょう。
でも、そうはとても言えませんでした。

それに、ビスケットなんて、自分だってほとんど食べたことがなかったし、食べたことのない仲間だっていたと思います。そんな時代でした。

幸いその話はそれ以上発展することはありませんでした。

最近、とても美味しい芋剣先をいただく機会がありました。名古屋の専門店の、包丁で切って作ったイモケンピだそうです。
細く長く繊細に切られて、想い出の中にあるサツマイモとはまったくかけ離れた、とろりと甘いお菓子でした。

高級なお菓子なのに、昔のあまり楽しくない想い出を書くなど・・・とためらう所もありましたが、ついつい書いてしまいました。

酢を飲む話


「お隣のご主人、お医者さんに血圧が高いといわれて、酢を飲もうとするんだけど、どうしても飲めないんだって・・・」
 夕食のときに、そんな話題が出ました。子どもの頃のことです。
 血圧を下げる薬がそのころはなかったのか、あっても酢を飲めばよいくらいの血圧だったのか、その辺のところは今となってはわかりません。

 酢が苦手の家なのに飲まなくてはならなくなる、というか、料理でふだん酢を使わないから逆に飲まなければならなくなる。
 そのことが子ども心に皮肉に思えたものでした。

 かぶらの甘酢漬けを食べながら、突然思い出したことです。子どもの頃の我が家は、よく酢の物が出たものでした。

 ただ、ふっと今思ったことですが、どうもお隣は我が家ほどは貧しくなかったような・・・。お肉も時々食べているようだった気がします。

 我が家は兄弟が4人もいましたし、いつも、よくいえば質素な食事でした。
 まあ、あのころはどこの家も本当に貧しい暮らしでしたし、それが普通で、それでよかったのですが。

写真は天竜川の水鳥、のつもりです。

 




 

「肉体」という言葉にあせった頃


「自分の子どもだったら、自分の生んだものだから、殺したってどうしたって親の勝手だがね」
 中学校に入学した頃のある日、友人の家に上がりこんで、仲間で数少ない漫画雑誌をまわし読みしていると、隣の部屋からその家のお兄さんの声が聞こえてきました。
「自分の子どもといっても、一個の独立した肉体でしょう。親のものであって、親のものではないんだよ」

 確かお兄さんも中学生だったと思います。すごい会話をしている、と思ったものでした。中学生になると、親子の会話もこんなふうでなければならないか、と思ったものでした。

 ということよりも、自分は「肉体」という言葉に、心の中で飛び上がったものでした。「健全なる肉体に・・・」などという使い方は、そのころはまだ知らなくて、まちかどのきわどい映画のポスターの(今ならどうってこともないものでしたが)例えば「妖しい肉体の・・・」などといった表現でしか、肉体という言葉を知らなかったのでした。
 そっとまわりの仲間の様子を様子をうかがいました。もちろん、聞こえていたでしょう。でも、だれもが黙って、漫画雑誌を見ていました。
 
 今考えても、そのころでは、その家のお母さんは特別なほうだったのでしょう。いや、たじたじになりながら、お母さんは必死で子どもと闘っていたのでしょう。とても素晴らしいお母さんだったと思います。
 でも、毎日の生活に追われて、時には、子どもを怒鳴りつけたりしているお母さんたちも、もちろん素敵でした。そういう時代でした。

写真は、まだ紅葉したまま落葉しないブルーベリー
  
入学早々、教頭先生の手帳につけられた


「宿題がありましたね。忘れた人は立ちなさい」
 中学校へ入学して、二回目の数学の時間でした。なぜか自分たちのクラスは、なんと教頭先生の授業でしたが、その教頭先生が厳しい声で言いました。

 そして、その瞬間まで、前日の授業で宿題が出ていたことを、自分はすっかり忘れていました。もちろん、宿題そのものは簡単なもので、とにかく忘れないでやってきなさい、という程度の意味のものだったのでしょう。忘れていなければ、当然やって来れたはずのものでした。

 実は、誰もがなんなくこなしてしまうことを、おもいっきりポカするのは、自分の得意技のようなものです。これまでの61年間の人生の中で、なんどそういう目に合ってきたことでしょう。いや、してきたことでしょう。
 (ですから、このブログを読んでいる小中高生の皆さんが、もしいるとしたら、安心してよいでしょう。)
 
 仕方がないので、椅子から立ちました。60人ほどの学級の生徒の中で、同じ小学校から来たものは、10名足らずでした。あとはまだまったく知らない他の小学校からの生徒ばかりでした。おまけに、宿題を忘れて立ったのは、自分のほかは、なんと同じ小学校から来た女の子が一人いるだけでした。
 でも、その屈辱よりももっと自分にとって、いやな気持ちにさせられたことがありました。

 「名前を言いなさい」
 教頭先生は、ポケットから小さな黒い手帳を取り出しました。そして、鉛筆で、宿題を忘れた間抜けな二人の生徒の名前を書き込みました。たとえが古いですが、文字通り閻魔様の手帳でした。

 なんだか自分の三年間の中学校生活は、どんなにがんばっても、結局、あの偉い教頭先生の手帳のところまで、引き戻されてしまうような気がしたものでした。

 などという高尚(?)なことは、単純な自分は言葉では思いつきませんでした。でも、ずーっといつまでも、いやな気持ちをひきずっていたように思います。
但し、そのことで教頭先生や、数学が嫌いになる、ことはなかったようでした。それだけの魅力のある教え方だったのでしょう。それに、忘れた自分が悪い、というだけの話でした。

 授業や評価に役立てるために、授業中に、子どもの活動を事細かに、子どもの目の前で、メモするようなことは、自分はしませんでした。もちろん、いまの若い先生たちは、実際に自分の手でやってみた上で、その是非を考えたほうがよいと思います。
 でも、絶えず子どもたちの反応をいっしょに楽しんで、多少なりとも、愉快なやる気の出る授業を、心がけたつもりはあります。